かみさまください、私だけのとびっきりのやつ


ずっと思ってること




わたしにとって唯一の人が欲しかった。それは彼氏や彼女じゃなくて、きちんとわたしの芯を形作るもので、もうそれは言ってしまえば神様みたいなものだった。でもわたしは宗教は何も信仰出来ずにいる。


私を今まで作ってきたものは多くのフィクションである。漫画やアニメや絵本、小説、映画。私は数々の夢を見た。おとぎ話、ファンタジー、恋愛もの、ホラー、ミステリー、サスペンス。その物語の主人公たちはキラキラと光っていて、普通とは違っていて、私とは全く比べ物にならないくらい、素敵だった。だから私は思った。こういう人たちじゃないと物語は作れないのだな、と。こういうのって人たちじゃないと、登場人物にさえなれないのだなと。


自分の人生の主人公は自分自身らしい。私は未だにそのことを納得できたことがない。なるほど人生の視点は必ず一点で、私自身の両目である。選択だって自分で出来る。でもこの体で、この心で、私は私として世の中で戦っているのだろうか。この世で輝いていたのはあの素敵な人々だったじゃないか。

恋愛は。勉強は。仕事は。全部うまくいくのはああいう選ばれた人なんじゃないだろうか。私がやっていいことなんて、あるのかな。自信って、どうやって持つんだろう。私が持っているものってあるのかな。登場人物にもなれないのに。モブにさえ、きっと、なれない。


私は幸せだ。五体満足だし、家族もきちんといるし、ご飯だって食べているし、学校にも通わせてもらっている。お友達だって、いる。でもどうしてこんな気持ちになるんだろう。欲求不満なのかな。無い物ねだりなのかな。

私には皆がずっとずっとスマートに生きているように思えて仕方ない。


私は恋人がいない。それに関しては特に気にしていないつもりだけれど、どこかでコンプレックスになっているのかもしれない。だって世の中には面白いくらいカップルがいる。街歩く夫婦を見かけても私は感動してしまう。この人たちは他人と他人だったはずなのになあ。どうして私には恋人ができないんだろう。恋人というのは、私が暮らしているこの日本の中では、どうやら友人より上の存在らしい。彼氏彼女を優先するのは当たり前のことで、イベントは2人で過ごすものなのだそうだ。恋人がいるということはリア充であり、恋人のいない非リア充に比べてステータスが上らしい。恋愛至上主義の世の中を嘆くというよりも、私は、一人の人間と深いコミュニケーションをとることを世の中全般のリア充達がやっていることが信じられない。リア充達は何度も連絡を取り合って、2人で遊んで、キスしたり、抱き合ったり、セックスしたりしてるのかと思うと、驚きに包まれる。

そして何よりできない自分の人間性に驚嘆する。レベル低すぎるのではないか。でも経験値がないんだよ。でもそこまでして、例えば合コンしたり出会い系サイトを使ったりなりふり構わず恋人が欲しいかというとそんなことはない。きちんと好きな人が欲しい。それからちゃんと過程を踏みたい。でもそんなことを言ってる場合ではないのだろうか。私みたいなマサラタウンの草むらにいるポケモンレベルの人間はがむしゃらにならないといけないのでは。ふしぎなアメはどこにも落ちてこないのだし。


わたしの好きなフィクションは、色んな人に唯一の人がいた。恋人、相棒、友人、家族、時には名詞にできないような関係性だって、あった。私にもそれが欲しかった。ずぅっと信頼できるひと。ずぅっと好きでいれるひと。そんなのはいないんだよ、って、分かりたいけど、嫌なのだ。お前は主人公じゃないんだよ、って、分かってるのに、嫌なのだ。変なところが夢見がちで、頭が悪くて、げんなりする。

誰かに、大丈夫だよって、ずっと言ってほしい。私はあなたが好きだよ、って、言ってほしいし、言いたい。守ってほしいし、守ってあげたい。でもいない。そんな人はいない。どこにもいない!

人が宗教を持つ理由が、最近少し分かった気がする。絶対のものがあるっていうのは、心地よくてたまらないものなんじゃないだろうか。

好きな人に傾倒するのも、熱烈なファンになるのも、一種の宗教で、すごく気持ちのいい行為なんじゃないかって、私は思う。


でも私はどこにもない。あてもない。絶対、壊れない、神聖な、それでいて、私だけのものなんて、世界にあるはずがないのに。


きっとあったら、私はもう少し自信が持てると思う。私の好きなものに好かれているのって、最高な気分になると思う。そうしたらもっときちんと生きれるんだと思う。きちんと生きるって、どういうことか、わからないけど。


作ろうかな。イマジナリーフレンドのように。私の中に私だけの神様。ずっと壊れなくて理想で固められた素敵な素敵神様。何があっても私だけを考えてくれて、どんな時も私のことを好きでいてくれる、最高に尊い神様。