せつなさのはなし
今日は雨が降っていた。バス停で前にいた中学生の女の子は、白い靴下が汚れていた。雨で跳ねてしまったのだろう。私はもうこの長さの真っ白な靴下を履くことはないだろうなあと思った。もっと履いておけばよかったとは思わなかった。それはきっと過去に思いを馳せているだけだからだ。後悔は全部そうだ。昔の方が綺麗で、ただ、戻りたいだけなのだ。
過去は切ない。けど未来だって切ない、と私は思う。私の中で、過去と未来の切なさは、ノスタルジアと宇宙の切なさとほぼ同じだ。
そしてそれは連なってるように思う。円環のように。
宇宙にノスタルジアを感じるのはなぜなのだろう。
多摩六都科学館に行った時に、古い宇宙に胸がドキドキして、あ、これノスタルジアだ、と思った。どこかへ帰りたくなった。多分、宇宙に。
私の大好きなバンドのひとつにavengers in sci-fiがあるのだけど、なんで好きかというと、その世界観が切ない宇宙のノスタルジアだからである。歌詞と音楽、それ自体がとても個人的でありながら普遍的なような、コスモちっくで、近未来でありながら、懐かしくて切なくなる。余韻があるのに突き放される。起承転結はなくて、シーンをひとつひとつ見るような、そんなバンド。
彼らは宇宙へと帰ろうよと歌っていて、これは多摩六都科学館と同じノスタルジアだなあと感じる。
宇宙はすべてにとって帰る場所なんだと思う。
地球は宇宙だけど、いま瞬いているはずの星の光を見ることはできない。わたしたちに届くのはいつだって少し前の光だ。
くらくらして胸が苦しくなるくらい愛しい。
Perfumeも大好きなのだけど、その理由のひとつに、彼女たちの宇宙的な切なさがある。
ライブにも何回か行ったことがあって、彼女たちの楽曲のテクノポップの特性上、基本的にはかぶせて歌うことが多い。
わたしたちが聴くことの出来るのは、その当時の彼女たちの声なのだ。
加工して感情が剥ぎ取られた声が、何よりも切なく響く。ぎゅっと閉じ込めて凍らされたまま、解凍されることはけしてない。彼女たちの楽曲はいつも刹那的な少女のままだ。成長できないアンドロイドとおんなじで。
少し前の光が届くような思いになる。
整理された声で愛を歌う歪さが愛おしい。サウンドとして使われている、とエフェクトをかけた声はよく言われているけど、わたしはすごく意味があると思っている。
何を言いたいかというと、未来的なものって切なさをめちゃくちゃ内包していてそこがとっても苦しいほど好きだよ、ということです。
宇宙には音がない。暗くて怖くて寒い。
切なくて悲しくて、それでも、わたしたちの帰る場所だ。いつまでも。